相手に感じるものは私の心 12

2019.02.13 Wednesday 12:47
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    【質問】


    相手を通して、自分を見ている、ということについて、教えて下さい。  


    【回答】


    人は自分の心で、世界を見ます。少し自分のことを冷たくされただけで、私達は唯識で、相手は自分のことが嫌だから、こんなことをしたんじゃないか、と思ってしまうことがあります。


    相手は、自分のことを嫌ではないのか、と思う心が唯識です。


    このように思うのは、日頃から、相手は自分の存在を嫌だと思っているのではないか、という声なき声が聞こえているから、ちょっとした縁でも、そのように思えてしまうのです。


    本当は、相手は私のことを嫌とは思ってはいないかも知れないのです。


    それどころか、逆に大事な存在だと思っているかも知れないのに、自分の思い込みで、相手はこう思っているのだ、と思ってしまうのです。


    自分の思い込みを信じて、本当はそれは違うのではないか、と思うことがないのです。


    そして、自分のことを嫌だと思っているに違いない、ということを前提として、こんな風に思われるならば、もうこの人と一緒にいたくないと思ってゆくのです。


    他人の心は、本当は分からない。


    だから、この人はこう思っているのではないかと、他人の心を判断しているのは、他人の心を通して、実は自分の心を見ているだけです。


    つまり、相手は、こういう人間だ、ということではなくて、自分はこういう人間だ、ということです。


    だから、それに対して、あれこれ思うのは、自分に対して思っていることなのです。


    例えば、相手は自分のことを嫌だと思っているのではないか、と思うのは、自分が思い通りにならない相手に対して、


    それが自分であれ、他人であれ、嫌だと思っていることであり、そんな嫌なものに対して、見たくないと思っている、ということです。


    思いを見れば、自分の心が分かります。


    唯識の教えを思い出し、自分が見ている相手は、自分なのだと思って、自分の心を見てゆかなければならないな、と知らされます。



    僧侶

    劣等感 11

    2019.01.29 Tuesday 14:12
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      インフルエンザが流行ってますね

      今年は多いようですね…


      「今度は私の番か」と

      毎年インフルエンザに怯えて



      かれこれ20年かかってない…



      ……………

      心理学者のアドラーは

      人間の苦しみは

      劣等感からくるものがほとんど

      と言ってます


      じつは

      その劣等感は

      お釈迦さんも同じことを言ってます



      【質問】


      劣等感は、なぜ、起きるのでしょうか?


      【回答】


      劣等感は、なぜ起きるのか。


      劣等感とは、自分の中で、嫌な部分が見えると、自分には、こんな悪い所があるから、ダメなのだと思う心です。


      劣等感が起きるのは、自分が上に立つ為に、他人を否定するから、と言えます。


      その時、この人は、こんな悪い所があるから、ダメなのだと否定します。


      なぜ他人の価値を下げるのか、と言いますと、それは他人を下げることによって、自分が上になれるからです。


      私達は、自分よりも、下の人を見ると安心します。


      それは何故かというと、自分が上に立つことによって、自分には価値があるのだ、と思えるからです。


      なぜ、それほどまでに私達は価値にとらわれるのでしょうか。


      それは、価値のある人は、他人から、大事にされて、見捨てられないと思えるからです。


      自分は、周りの人から相手にされていないと思う人ほど、価値にとらわれます。


      価値があれば、自分は、皆から大事にされると思っている。


      だから、皆から大事にされたいから、皆から認めてもらいたいから、他人よりも、上に立とうとします。


      そうして、他人の上に立つことによって、その時は自分は価値があるのだ、と思えるようになって、安心します。


      しかし、上に立ったから、と言って、皆から認めてもらえる訳ではありません。


      皆から相手にされないのではないか、と不安になり、その不安から、自分が上に立とうとする。


      結局、劣等感が生まれるのは、どうしてかと言いますと、自分は見捨てられるのではないか、という不安から、自分は相手にされていないのではないか、という不安から、起きて来るのです。


      この不安から、私達は、自分よりも下の人を作ろうとしてしまいます。


      自分の周りの人を見て、ダメな所を探そうとします。


      そして、ダメな所を探して、こんなダメな所があるから、この人はダメなのだ、と安心する。


      他人を下げることによって、その種蒔きが、唯識で跳ね返り、ブーメランのように、世界から自分のダメな所を否定されているように感じて苦しむようになります。


      結局、他人に向けられた感情が、そっくり、そのまま、自分の元へと返ってくるのです。


      劣等感は、自分が上に立ちたいという思いから、その思いが跳ね返って、自分の嫌な所が気になるようになり、こんなダメな所があるから、自分はダメなのだ、と思ってしまいます。


      他人を否定したら、唯識で跳ね返り、自分も否定されるように、世界から感じて、そして実際に周りから、否定されるようになっていくのですね。



      僧侶


      因果応報

      2019.01.23 Wednesday 18:50
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        仙台は毎日乾燥注意報でしたが

        今日少し雨が降りました。


        お肌にも潤いがほしい…


        今日は久しぶりに

        お釈迦さんの声です。


        難しい教えを

        ネコでもわかるように

        説明してもらってます



        【質問】


        仏教で教える「善いこと」、「悪いこと」を分かりやすく、教えて下さい。「善いこと」をする目的は、何でしょうか。


        【回答】


        「善いこと」とは、「自分が喜び、他人も喜ぶ」。そして、「後悔しない」ことです。


        「悪いこと」とは、「自分が苦しみ、他人も苦しむ」。そして「後悔する」ことです。


        自分には、喜びであっても、他人に迷惑をかけるのは、善いことではありません。


        また他人には、喜びであっても、自分が苦しむのも、善いことではありません。


        わずかでも、後悔すると思うならば、そういう行動はやめましょう。


        「善いこと」をすれば、「善い結果」があります。これには、例外はありません。


        「そこそこの結果」しかないのは、「そこそこのこと」しかしていないからです。


        「善い結果」を得るために、「善いこと」をしようとすると、期待通りの「善い結果」が出なければ、不満や怒りが出て、心は穢れていきます。


        それでは、「善いこと」にはなりません。


        仏教で教える、「善いこと」をする目的は、「善い結果」を得るためでなく、心を清らかにすることだ、と理解して下さい。


        心を清らかにする目的であれば、期待しても期待しなくても、「善い結果」が出て来るのです。



        僧侶


        他人が許せない正体は

        2017.09.16 Saturday 19:27
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          【質問】


          他人を許せたら、自分も許せる、と聞きましたが、どういうことなのでしょうか?  


          【回答】


          他人を許せたら、自分も許せる。自分の存在を否定してくる人がいるからこそ、自分が知らされる。


          これが仏教の教えです



          普段、私達は、自分のことを善人だと自惚れていますが、一度、自分のことを否定してくる人と出会ったならば、そんな優しい心は、どこへやら、で、吹き飛んでしまいます。


          自分の中から、醜い感情が吹き上がって来ます。


          その時、多くの人は、自分はそんな酷いことを思う人間ではないのに、あの人がこんなことをするから、こんな醜い感情が吹き上がってきたのだと思って、相手を責めてしまいます。


          しかし、自分に、元々、そんな醜い感情が存在していなかったならば、縁が来ても吹き上がることはないのです。


          そんな感情が吹き上がる、というのは、自分に元々、そんな感情があったからであり、それが縁に触れて、見えただけです。


          つまり、阿頼耶識に、過去に行った経験として、業種子が、薫習されていたのです。


          そう思ったら、自分とは、こんな人間なのだな、と思って受け止めるしかありません。


          人間とは、とかく善人というところに立って、他人を見下していたいものです。


          でも、醜い感情を受け入れてしまったら、それが出来なくなる。


          それでも、受け入れたならば、この世に許せない人はいなくなるのです。


          他人が許せない、というのは、自分の醜い感情を許せない、ということです。


          他人を許せたら、自分も許せる。


          自分を許せるようになると、自分の醜い感情が見えても、己れ自身が苦しむこともなくなるのですね。



          僧侶

          自分と向き合うとは

          2017.08.01 Tuesday 15:56
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            【質問】

            仏教でいう

            分別心について、

            詳しく教えて下さい。

            【回答】

            私達は、分別心によって、世界を善と悪、価値のあるものと価値のないものに、というように、二つに分け、悪を否定し、価値のないものを馬鹿にしています。

            そうすることによって、いつも善人や価値のある方に自分を置き、自分は馬鹿にされたり、否定されるような人間ではないのだと思って、心の平安を保っているのです。

            だから、いざ現実に自分にも悪があると分かりそうになると、どうしても、その現実を認めることが出来ません。

            なぜなら、その現実を認めるとなると、今まで「自分は悪などしない」と思って、悪を責めに責めてきた日々の思いが、一気に自分に跳ね返り、突き刺さってくるからです。

            つまり、自分が善だと思って、相手の悪を責めていた分だけ、自分が悪になると、責められているように感じるのです。

            そこで、私達は現実を歪めて、自分に都合の良いように見ようします。

            そして、そうすることによって、自分に向けられた責められるような苦しみから、一時的に逃げようとするのです。

            しかし、どんなに苦しみから目を逸らし、見えなくなったとしても、苦しみは消えることはありません。

            今度は、苦しみが不安となって、たとえ現実には誰も責めている人や、馬鹿にしている人がいなかったとしても、

            「誰かが自分を責めているのではないか」とか、「馬鹿にしているのではないか」という不安が付きまとい、離れることはありません。

            それでも逃げたら楽になれると思って、この不安を誤魔化そうとして欲に走り、目先の快楽を貪ってしまうのです。

            心は苦しみから逃げると弱くなり、たいしたことがない苦しみでも激痛に感じて耐えられなくなる。

            だから、一度苦しみから目を逸らし逃げてしまうと、もう現実と向き合うことは出来なくなり、これ以上は、逃げられなくなる限界まで、欲に走ろうとしまいます。

            当の本人にしてみれば、そうやって逃げているうちに、誰かが何とかしてくれないかな、と淡い期待をしているのですが、

            欲に走っても、問題を先送りにしただけで、何かが変わることがないのが、現実です。

            むしろ、そうやって欲を貪っている間に、問題は深刻化していき、現実と向き合うことを苦しくさせてゆきます。

            しかも欲に走って、どんなに逃げたとしても、現実では問題が深刻化していることに薄々気付いているので、余計、不安になり、その不安を誤魔化そうとして、ますます欲にのめり込んでゆくのです。

            そうやって、もう、にっちさっちも行かなくなるところまで、欲に走ったあげく、ボロボロになった現実と苦しみに、一秒も耐えられないほど弱くなってしまった心で向き合わなければならないのです。

            その苦しみは想像を絶するものがあり、死んだら楽になれると思って、自ら命を絶ってゆく人もいますが、肉体を失っても苦しみは消えることなく、

            まさに、天まで届く火柱に、この身を焼かれて、果てしないほどの長い間、苦しみ続けなければならないのです。

            逃げて、逃げて、その時は一時的に楽になったとしても、後から、その何倍もの苦しみがやってきて、苦しまなければならない。

            だから、どんなに苦しくても現実と向き合わなければなりません。

            では、なぜ私達は、これほどまでに、ありのままに現実を見ることができないのか。

            根本的な原因は、分別心にあります。

            唯識では、分別心を正確に言いますと、虚妄分別(こもうふんべつ)、あるいは、妄分別(もうふんべつ)と言います。

            この分別心によって世界を二つに分け、悪を否定し、正しいところに置こうするから、世界が歪み、不安が生み出されます。

            問題にするべきことは、分別心でもって、心を善悪に分ける自分のあり方です。

            苦しみは、現実世界が生み出していると思って、現実世界・状態が変われば、苦しみはなくなると思っているのが、私達の迷いの世界です。

            私達は、原因が自分の心にあると思いたくないので、目を外に向け、「自分を不安にさせる奴がいる」と思って、お金や権力などの力を手に入れて、

            この現実世界を思い通りに動かそうとしてしまいます。

            このように、苦しみや幸せは、自分を取り巻く環境によって生み出されるものだと思っている人達に、苦しみや幸せは、心が生み出すものであると教え、

            いくら外を問題にしても楽になるどころか、苦しみは深くなるばかりである、と知らせ、外に向いた目を自分の心に向けさせる。

            そして、不安や苦しみの原因である分別心を、一つ一つ取り除いてゆき、苦しみから離れさせてゆく。



            僧侶

            好かれない人

            2017.07.26 Wednesday 06:37
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              【質問】


              私は、他人に好かれません。仏教の視点から、何が原因なのでしょうか、教えて下さい。


              【回答】


              他人に好かれない原因を、仏教の視点から、歌で示してみましょう。


              好かれない、他人の欠点、あげる人。


              好かれない、他人の出世を、妬む人。


              好かれない、他人をさげすみ、差別する。


              好かれない、他人が信用、出来ぬ人。


              好かれない、自慢話で、自惚れる。


              好かれない、我がまま勝手で、骨惜しみ。


              好かれない、儲からなければ、しない人。


              好かれない、奉仕の心、欠けた人。


              好かれない、他人の不幸を、知らぬ顔。


              好かれない、下をあなどり、上にへつらう。


              好かれない、仏頂面で、愛嬌なし。


              好かれない、他人に同情、しない人。


              好かれない、陰口、告げ口、ウソをつく。


              好かれない、他人のモノなら、浪費する。


              好かれない、独りよがりが、村八分。


              好かれない、他人の意見を、崩す人。


              好かれない、頑固一徹、通す人。


              好かれない、他人と和合の、出来ぬ人。


              好かれない、我利我利根性、持った人。



              僧侶

              結果の原因 ?

              2017.06.20 Tuesday 22:20
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                【質問】

                人間関係の苦しみ悩みの正体は、何なのでしょうか?


                【回答】


                人間関係の悩みには、ツボがあります。


                人間関係で苦しみ悩んでいる人が、世間には多く存在します。


                多く人は、苦しみ悩みの原因を、外の出来事、環境や人に求めていますが、真実から言うと、苦しみ悩みの原因は、すべて自分の内側にある、自分の心にある、と説くのが、仏教です。


                人間関係の苦しみ悩みの正体は、外の出来事、そのものではなく、苦しみ悩みを作っている心であり、その出来事を、辛い問題だと感じる心なのです。


                これを一つの譬えでいうと、花粉症になぞらえたら、分かり易いのではないかと思います。


                春になると、大量のスギ花粉が飛散しています。


                Aさん、Bさんがいたとします。


                Aさんは、花粉に体が反応して、くしゃみが止まりません。


                Bさんは、花粉が飛んでいることさえ、分かりません。


                この場合、Aさんにとって、花粉は、問題です。しかし、Bさんにとっては、問題ではないのです。


                世の中に花粉が飛んでいるという事実は、変わらないのです。


                つまり、花粉そのものは、問題ではないのです。


                本当の問題は、花粉に反応してしまうAさんの中にこそ、あるのです。


                花粉症の人は、体の中に花粉に対する抗体があるから、花粉に反応します。


                だからといって、花粉症の人が、自分の周りから、花粉という存在を、一切なくそうとしても無理です。


                せめて、マスクをして、少しでも入ってくる量を減らす位しか、出来ません。


                避けて通る訳にもいきません。無視しても、無視は出来ません。


                やはり、一番効果的なのは、自分の体質、つまり、自分を変えることでしょう。


                人間関係の悩みも、これと同じです。


                人間関係の問題も、同じように、ある特定の他人や、出来事に反応する人は、その言動や出来事に対する抗体があるから、反応するのです。


                その抗体が、悩みの種です。


                ところが、人間関係においては、相手の言動に反応して、必死で相手を責め立てて、相手を変えようとします。


                ちょうど、花粉をなくそうとするように。


                当然ですが、いくら他人を責め立てても、相手は、全然、変わりません。余計に状況が悪くなるだけです。


                何故なら、その相手が問題なのではなく、その人の言動を問題と感じる、反応していることが問題だからです。


                人間関係に悩み、しんどい、と思う時、それは、あなたの心が、何かに反応している、ということです。


                その何かを見極め、体質を改善することが、大事なのです。


                心にも、花粉症がある、ということですね。


                幸不幸を生み出す原因は、全て、自分の心の本心である、阿頼耶識にある、とお釈迦様は教えておられます。


                今まで、経験として、おさめてきた体や、口や、心の行いが、阿頼耶識に業力不滅で、業種子として、貯えられて、それが様々な縁と和合して、私達の日々の現実の運命という結果となって、現われるのです。


                苦も楽も、幸も不幸も、心から、笑顔で暮らせ、その日、その日を、という歌の通りです。


                これが、仏教で教える、自業自得という、因果の道理、縁起の教えです。

                他人がわるく見えるとき

                2017.06.19 Monday 16:57
                0


                  【質問】


                  相手の言動で

                  嫌な所が見えたならば、相手を責める気持ちが出てきます。

                  どうすれば良いでしょうか?


                  【回答】


                  自分が相手を否定するのは、相手を通して、自分の嫌な所が見えているからであり、


                  自分はそんな嫌な所、悪い所は持っていないと思いたいからこそ、相手を責めるのだ、という事を、まず理解することが大事です。


                  私達は、相手を責めるのは、自分は相手がやっているような悪いことを自分はしていないと思うからであり、


                  もし自分が相手と同じようなことをしているのなら、泥棒が他人を泥棒扱いすることは出来ないように、他人を非難する事は出来ません。


                  しかし、私達は、自分が相手と同じような事をやっていても、自分はそんな悪い人間だと認めたくないので、相手を責めることによって、自分を正当化してしまうのです。


                  仏教の教えから言えば、相手を通して見えるものは、自分の中に収まっているものであり、自分が心で思っていないものは、相手の姿を通して、見えることはありません。


                  だから、真実から言えば、自分はあんな酷いことはしないと思って、責めても良いことは一つもありません。


                  相手の言動を通して、嫌な所が見えたならば、相手を責めるのではなく、他人の振り見て我が振り直せで、自分の心を反省する事が大事なのです。



                  僧侶

                  不安と向き合う

                  2017.06.07 Wednesday 17:24
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                    【質問】

                     

                    自分の不安の原因は、外からやってくるのではなく、心の内にあると気付けば、どうなっていくのでしょうか?

                     

                    【回答】

                     

                    自分の不安の原因は、外からやってくるのではなく、心の内にあると気付くと、苦しくても、自分の不安の原因と向き合って、解決していこうとします。

                     

                    私達は、誰しも、自分の中に、自分でも許せない心を持っています。

                     

                    たとえば、他人に迷惑をかける自分とか、他人に助けてもらわなければ生きてゆけない弱い自分とか、

                     

                    他人を傷つけて、自分の気持ちを分かってもらおうとする自分とか、自分を守る為に、平気で嘘をつく自分とか、

                     

                    そのような醜い自分、汚い自分、恐ろしい自分を心の中に抱えています。

                     

                    私達は、そんな自分を見たくないので、目を外に向け、外界の華やかな世界を追い求めてしまいます。

                     

                    しかし、どんなに醜い自分と向き合いたくないから、と言って、目を逸らしていても、問題が解決することはありません。

                     

                    それどころか、目を逸らし、逃げれば逃げるほど、内なる不安は、どんどんと吹き上がり、問題は日を追うごとに深刻になってゆきます。

                     

                    しかし、どんなに不安の原因は、自分の心にある、と気付いても、私達には、その不安をどうすることも出来ません。

                     

                    何故なら、不安と向き合う為には、功徳が必要だからです。

                     

                    ここで功徳とは、安心感のことで、他人から認めてもらうことによって得られる心の余裕のことです。

                     

                    私達は、心に余裕があってこそ、不安と真正面から向き合うことができます。

                     

                    しかし、私達のいる世界は、皆、自分が認めてもらいたい一杯で、相手のことを認めてあげようと思う人は、殆どいません。

                     

                    ですから、そんな世界の中で、不安と向き合って問題を解決することは、ただ心が傷つき、苦しいだけなので、問題から目をそらし、

                     

                    欲を満たすことによって、不安を誤魔化そうとするのも、仕方ないことかも知れません。

                     

                    ここで大事なことは、その人が不安と向き合えるように、心を支え、その人がどんなことをしても、決して見捨てることなく、認め続けることによって、功徳を与えることの出来る人の存在です。

                     

                    このような存在を、仏教では善知識とか、善友と言いますが、その善友がいなければ、不安と向き合い、問題を解決してゆくことは、中々、出来ません。

                     

                    また、善知識と出会って、認めてもらえる環境の中にいても、今まで何度も他人から見捨てられてきたり、都合の悪い人を見捨ててきた人は、

                     

                    善友が、どんなに無条件で認めようとしても、どうしても信じることができず、問題を自分の力で、何とかしようとしてしまいます。

                     

                    これを仏教で、自力と言いますが、この自力の強い人は、苦しい時ほど、自分で問題を抱え込んでしまい、善知識に頼ろうとはしないのです。

                     

                    だからこそ、善友は、このような自力の強い人に対して、焦ることなく、温かく接し、自分は絶対に見捨てられないのだ、と信じてもらえるまで、見守り続けなければならないのです。

                     

                    このようにして、自分の問題と向き合い、一つ一つ解決することによって、初めて、心が穏やかになり、他人の心の渇きを癒すことが出来るような、潤いのある人間になることができるのです。

                     

                    僧侶

                    怒りを 観じる

                    2017.06.03 Saturday 22:11
                    0



                      【質問】


                      仏教で教えられる、怒りの解決方法を教えて下さい。


                      【回答】


                      怒りは、心の猛毒であり、自分を破壊する恐ろしい心だと、まず、自覚して頂きたいと思います。


                      怒りとは、自分の心の中から、生まれたものですから、怒りの解決方法は、心の毒、そのものを抜くことしか、ありません。


                      その怒りの解決方法とは、お釈迦様が悟りを開かれた方法である、毘鉢舎那(ビバシャナ)の実践、つまり、今の瞬間の自分に気付き、物事をあるがままに明らかに観る、ことです。


                      これが、世の中で、一番科学的な、怒りの毒を抜く方法なのです。


                      ですから、怒りが生まれたら、「あっ、怒りだ、これは怒りの毒だ」と、すぐに自分を観るのです。


                      怒り、そのものを観察し、客観視出来るように、努めてみてください。


                      「今、この瞬間、私は気持ちが悪い。これは怒りの感情だ、ということは、私は怒っているのだ」と、外に向いている自分の目を、すぐに内に向けるのです。


                      最初は、「他人が何かを言うと、すぐに私は怒ってしまう」、というところまでは、仕方がありません。


                      しかし、それからも、延々と人の言葉に振り回されて、思い出し、捉われるのではなく、怒った瞬間に、これは怒りだ、と観ていくのです。


                      そうすれば、不思議と、怒りは、生まれた瞬間で消えてしまうのです。


                      消えてしまえば、心は次の瞬間を感じようと、することが出来ます。


                      怒りが消えると、凄く気持ちが良いものです。




                      そこまで行くと、自分もコントロールがうまいものだ、と自分を褒めてあげることが出来ます。


                      そうなれば、いつでも、怒りの感情に悩まされることはなく、穏やかに人の話を聞いてあげることが出来ます。


                      これが、お釈迦様が、怒りを治める方法です。


                      自分の心を観る、心を観察することで、怒りは消えるのです。


                      簡単で、瞬時に出来ることで、心理学の知識も、カウンセリングも、全く必要ありません。


                      仏教では、今の自分に気付いていない人のことを、愚か者、死んでいる人、寝ている人、と言う意味の言葉で呼んでいます。


                      怒ったその瞬間に、自分の怒りに気付けない人は、怒りの塊になります。


                      それで、ひとしきり、怒ったあとで、「ああ、腹が立つ」などと、自分が怒ったことを自覚するのです。


                      ひどい時には、三年経っても、「あの時は腹が立った」などと、思い出して、また怒って、そのたびに自分を何度も破壊することになります。


                      自分をあるがままに観る、客観視する。ただそれだけです。


                      このことを、しっかりと覚えておいて頂きたいと思います。


                      僧侶



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