「毒親」だとか、、
よく考えるなぁと思います(^^)
前日でテレビでは
金持ちの親に生まれたかったから
自分は「親ガチャ」外れたとか
言ってましたが
そういうことでないですよね。。
生きづらさは
生い立ちと深く関係があります。
「親ガチャ」はずれたと思っている方
自分の親はハズレ親なのには
どんな意味があるのだろう〜と
自分と向き合ってみるといいですゆ
カウンセラーの阿部真由美です。
お久しぶりの更新になります
仙台でカウンセラーをはじめて
16年が過ぎました。
私もホームページも年をとったので(笑)
ここで新しいサービスと共に
ホームページのリニューアルはじめてます。
4月.5月ぐらいから制作しはじめて
あと1か月後ぐらいには皆さまに
お見せできると思います。
このお仕事の性質上
常に脳みそは新しく更新し続けております
(*´꒳`*)
どうぞ皆さま楽しみにお待ちください!
震災をきっかけにココロの病気に
なった方々とたくさんあってきました。
何年か経ってから
症状が出てきた人もいます。
自分がPTSDだと知らずに
苦しみと闘ってきた人もたくさんいます。
今日はテレビ番組はどこの局も
震災の番組ばかりです
「あの日を忘れないために。」
しかし
震災の特集を見るたびに苦しみ、
テレビを観ることが出来ない人々が
たくさんいることも忘れないでほしいと思います
世界中が新型コロナウイルスで
苦しんでいる毎日
私はずっと考えていた事がありました
「なぜこんな事が起きたのか」
世界中、
日本中に起きた大きな事だけではなく
日ごろの個人的なレベルのことまで
いつも私は考えてみるんです
「この事が起きた意味は何だろう」と
答えがでるまでいつも探します
で、1月からずっと探していた
「私なりの答え」が先ほど出ました!
………
こうやって
いつも前向きに色んなことを
乗り越えて生きています
自分に起きる事全て意味があると。
新型コロナウイルスが
私達の生活といのちを脅かしている昨今です
…………
そんな中この日を迎えました。
震災を体験した人または家族や大切な
人を亡くした人にとっては
この日が来る度に記憶がそこに戻ります
震災時たくさんの方々のカウンセリングを
してきました。
あの日から9年がたちましたが
家族や大切な人を亡くした方々で
まだあの日で心がとまってしまったままの方が沢山います。
PTSDになっている事に
気づかず治療もせず苦しみなから
生きている人もいます。
災害の大きさは人の苦しみの大きさに
比例するのでしょう…
残された私達はそれでも
生きていかなければなりません
どう生きていくか
考える日だと思っています
]]>【質問】
人間関係の苦しみ悩みの正体は、何なのでしょうか?
【回答】
人間関係の悩みには、ツボがあります。
人間関係で苦しみ悩んでいる人が、世間には多く存在します。
多く人は、苦しみ悩みの原因を、外の出来事、環境や人に求めていますが、真実から言うと、苦しみ悩みの原因は、すべて自分の内側にある、自分の心にある、と説くのが、仏教です。
人間関係の苦しみ悩みの正体は、外の出来事、そのものではなく、苦しみ悩みを作っている心であり、その出来事を辛い、問題だと感じる心なのです。
これを一つの譬えでいうと、花粉症になぞらえたら、分かり易いのではないかと思います。
春になると、大量のスギ花粉が飛散しています。
Aさん、Bさんがいたとします。
Aさんは、花粉に体が反応して、くしゃみが止まりません。
Bさんは、花粉が飛んでいることさえ、分かりません。
この場合、Aさんにとって、花粉は、問題です。しかし、Bさんにとっては、問題ではないのです。
世の中に花粉が飛んでいるという事実は、変わらないのです。
つまり、花粉そのものは、問題ではないのです。
本当の問題は、花粉に反応してしまうAさんの中にこそ、あるのです。
花粉症の人は、体の中に花粉に対する抗体があるから、花粉に反応します。
だからといって、花粉症の人が、自分の周りから、花粉という存在を、一切なくそうとしても無理です。
せめて、マスクをして、少しでも入ってくる量を減らす位しか、出来ません。
避けて通る訳にもいきません。無視しても、無視は出来ません。
やはり、一番効果的なのは、自分の体質、つまり、自分を変えることでしょう。
人間関係の悩みも、これと同じです。
人間関係の問題も、同じように、ある特定の他人や、出来事に反応する人は、その言動や出来事に対する抗体があるから、反応するのです。
その抗体が、悩みの種です。
ところが、人間関係においては、相手の言動に反応して、必死で相手を責め立てて、相手を変えようとします。
花粉をなくそうとするように。
当然ですが、いくら他人を責め立てても、相手は、全然、変わりません。余計に状況が悪くなるだけです。
何故なら、その相手が問題なのではなく、その人の言動を問題と感じる、反応していることが問題だからです。
人間関係に悩み、しんどい、と思う時、それは、あなたの心が、何かに反応している、ということです。
その何かを見極め、体質を改善することが、大事なのです。
心にも花粉症がある、ということです
僧侶
【質問】
議論の好きな人で、相手の間違いを正せば、相手は自分の言うことに従ってくれる、と思っている人がいますが、その人はどんな心境なのでしょうか。
【回答】
世の中には、相手の間違いを正せば、相手は自分の言うことに従ってくれる、と思っている人がいます。
そういう人は、自分の思い通りにならないことがあると、相手を責めます。
そして、相手が負けを認めたら、自分は正しいから、これもしなさい、あれもしなさい、と自分の要求を通そうとします。
このような人は、議論に勝ったら、相手は自分の思い通りになる、と思うのだと思います。
議論に勝ったから、と言って、相手は自分を責めなくなるだけで、自分の思いが相手に通る訳ではないのです。
それでも議論を相手にぶつけて、相手を負かそうとする。
その時、相手が悪かった、ごめんね、と謝ったら、その人は心が楽になるのでしょうか。
結局、いくら謝っても、責めてくるだけです。
それは勝ち負けを問題にして、相手を責めてくる人は、相手に勝ちたいのではなくて、どうしようもない自分の気持ちを吐き出したいだけなのです。
相手に反撃されたら、気持ち良く自分の気持ちを吐き出すことが出来ないので、まずは相手に勝って、自分の気持ちを吐き出そうとしているのです。
僧侶
8年前
「あの時もし◯◯だったら…」と
後悔する人
救われた人
さまさまな思い。。。
…………………
人生にはいつも分かれ道があります
Aという選択
Bという選択
常に選択の繰り返し。
どんな選択をしても結局は
実は人生は変わらないのではないか
と思うことがあります
その人の目的地が同じであれば
そこへの道はどこを通っても
つく場所は同じなように…
私は
苦しみには意味があるといつも
思います。
苦しみはなくならない
でもその苦しみの意味を見つけることが
苦しむ理由じゃないかと
私は思います。
苦しみを避けることはできない
なら。向き合ってみる。
【質問】
相手を通して、自分を見ている、ということについて、教えて下さい。
【回答】
人は自分の心で、世界を見ます。少し自分のことを冷たくされただけで、私達は唯識で、相手は自分のことが嫌だから、こんなことをしたんじゃないか、と思ってしまうことがあります。
相手は、自分のことを嫌ではないのか、と思う心が唯識です。
このように思うのは、日頃から、相手は自分の存在を嫌だと思っているのではないか、という声なき声が聞こえているから、ちょっとした縁でも、そのように思えてしまうのです。
本当は、相手は私のことを嫌とは思ってはいないかも知れないのです。
それどころか、逆に大事な存在だと思っているかも知れないのに、自分の思い込みで、相手はこう思っているのだ、と思ってしまうのです。
自分の思い込みを信じて、本当はそれは違うのではないか、と思うことがないのです。
そして、自分のことを嫌だと思っているに違いない、ということを前提として、こんな風に思われるならば、もうこの人と一緒にいたくないと思ってゆくのです。
他人の心は、本当は分からない。
だから、この人はこう思っているのではないかと、他人の心を判断しているのは、他人の心を通して、実は自分の心を見ているだけです。
つまり、相手は、こういう人間だ、ということではなくて、自分はこういう人間だ、ということです。
だから、それに対して、あれこれ思うのは、自分に対して思っていることなのです。
例えば、相手は自分のことを嫌だと思っているのではないか、と思うのは、自分が思い通りにならない相手に対して、
それが自分であれ、他人であれ、嫌だと思っていることであり、そんな嫌なものに対して、見たくないと思っている、ということです。
思いを見れば、自分の心が分かります。
唯識の教えを思い出し、自分が見ている相手は、自分なのだと思って、自分の心を見てゆかなければならないな、と知らされます。
僧侶
]]>今日の仙台は日差しがさしてます
関東は昨日雪が降ったみたいですね
東北人の私達は慣れてますが
慣れない雪道足元どうぞ気をつけてください
本当に親というものは
何年たっても離れて暮らす
子どものことを一日も思い出さない日は
ないですね〜
と
我が子を思う母心でした(*´-`)
……………
最近ある出来事があり
「甘える」ということを
じっくり考えさせれる日々ありました
皆さまが普段使っている
「甘える」=「頼る」
と思ってますよね
わたしは最近の経験から
甘えるとは相手に頼るのはなく
大人が大人に甘えるとき
それは「相手を支配したい」という
思いが隠れてると感じました
例えば
妻が夫に甘えられていると感じて
腹が立ったとき
また
上司が部下に甘えられていると感じて
嫌な気持ちになったとき
それは
「支配されている」と
人は感じるのではないかと思います
だから人によっては
甘えられてると違和感や嫌悪感に
なるのではないか…
甘えてると思われてる本人は
甘えてるつもりはない。
しかし
甘えてると言われたとき
それを「支配しょうとしている」という言葉に置き換えてみるとしっくりくる。。
これは
受け取る側の認識にもよる時もある
相手は甘えてないのに
嫌な気持ちになるとき
自分が支配されていると認識してしまう
多くの人間関係は
支配する側とされる側で成り立つことが
よくある
威圧的に相手に言ってるときは
わかりやすい
むしろ厄介なのは
「甘えという支配」かもしれない
現在は3組に1組が離婚する時代で
離婚は珍しくないし
ひとクラスに数人はひとり親ですね
離婚をした時は
もう二度と結婚なんかしないと思うひとも
多いと思いますが
時間や年月が経つにつれ
再婚を考えるひとは多いですね
ここでは
親が再婚した、
「子供の気持ち」
をお伝えします
結論からいうと子どもたちの心は
例外なく傷ついています
でもそれを言葉に出さない子も多い
また小さい子どもほど
「パパ(ママ)欲しい?」と聞いたら
当然「うん!欲しい」と言います
でも子どもは
それがどういう事かは
わからずに返事してます。
それで親は
「子どもも父親(母親)を
欲しがっているから」と
自分が再婚したい気持ちを
正当化します
どんなに優しい再婚相手でも
子どもにとっては
「他人」がある日から
同じ家で暮らすわけですから。。。
いろんな意味で傷つきます。
でも再婚してはいけない
というわけではなく
大切なのは
再婚は子どもの為と
勘違いしないで
再婚するのは
親自身が「自分のため」と自覚する
ことが大切だということです
]]>インフルエンザが流行ってますね
今年は多いようですね…
「今度は私の番か」と
毎年インフルエンザに怯えて
かれこれ20年かかってない…
……………
心理学者のアドラーは
人間の苦しみは
劣等感からくるものがほとんど
と言ってます
じつは
その劣等感は
お釈迦さんも同じことを言ってます
【質問】
劣等感は、なぜ、起きるのでしょうか?
【回答】
劣等感は、なぜ起きるのか。
劣等感とは、自分の中で、嫌な部分が見えると、自分には、こんな悪い所があるから、ダメなのだと思う心です。
劣等感が起きるのは、自分が上に立つ為に、他人を否定するから、と言えます。
その時、この人は、こんな悪い所があるから、ダメなのだと否定します。
なぜ他人の価値を下げるのか、と言いますと、それは他人を下げることによって、自分が上になれるからです。
私達は、自分よりも、下の人を見ると安心します。
それは何故かというと、自分が上に立つことによって、自分には価値があるのだ、と思えるからです。
なぜ、それほどまでに私達は価値にとらわれるのでしょうか。
それは、価値のある人は、他人から、大事にされて、見捨てられないと思えるからです。
自分は、周りの人から相手にされていないと思う人ほど、価値にとらわれます。
価値があれば、自分は、皆から大事にされると思っている。
だから、皆から大事にされたいから、皆から認めてもらいたいから、他人よりも、上に立とうとします。
そうして、他人の上に立つことによって、その時は自分は価値があるのだ、と思えるようになって、安心します。
しかし、上に立ったから、と言って、皆から認めてもらえる訳ではありません。
皆から相手にされないのではないか、と不安になり、その不安から、自分が上に立とうとする。
結局、劣等感が生まれるのは、どうしてかと言いますと、自分は見捨てられるのではないか、という不安から、自分は相手にされていないのではないか、という不安から、起きて来るのです。
この不安から、私達は、自分よりも下の人を作ろうとしてしまいます。
自分の周りの人を見て、ダメな所を探そうとします。
そして、ダメな所を探して、こんなダメな所があるから、この人はダメなのだ、と安心する。
他人を下げることによって、その種蒔きが、唯識で跳ね返り、ブーメランのように、世界から自分のダメな所を否定されているように感じて苦しむようになります。
結局、他人に向けられた感情が、そっくり、そのまま、自分の元へと返ってくるのです。
劣等感は、自分が上に立ちたいという思いから、その思いが跳ね返って、自分の嫌な所が気になるようになり、こんなダメな所があるから、自分はダメなのだ、と思ってしまいます。
他人を否定したら、唯識で跳ね返り、自分も否定されるように、世界から感じて、そして実際に周りから、否定されるようになっていくのですね。
僧侶
仙台は毎日乾燥注意報でしたが
今日少し雨が降りました。
お肌にも潤いがほしい…
今日は久しぶりに
お釈迦さんの声です。
難しい教えを
ネコでもわかるように
説明してもらってます
【質問】
仏教で教える「善いこと」、「悪いこと」を分かりやすく、教えて下さい。「善いこと」をする目的は、何でしょうか。
【回答】
「善いこと」とは、「自分が喜び、他人も喜ぶ」。そして、「後悔しない」ことです。
「悪いこと」とは、「自分が苦しみ、他人も苦しむ」。そして「後悔する」ことです。
自分には、喜びであっても、他人に迷惑をかけるのは、善いことではありません。
また他人には、喜びであっても、自分が苦しむのも、善いことではありません。
わずかでも、後悔すると思うならば、そういう行動はやめましょう。
「善いこと」をすれば、「善い結果」があります。これには、例外はありません。
「そこそこの結果」しかないのは、「そこそこのこと」しかしていないからです。
「善い結果」を得るために、「善いこと」をしようとすると、期待通りの「善い結果」が出なければ、不満や怒りが出て、心は穢れていきます。
それでは、「善いこと」にはなりません。
仏教で教える、「善いこと」をする目的は、「善い結果」を得るためでなく、心を清らかにすることだ、と理解して下さい。
心を清らかにする目的であれば、期待しても期待しなくても、「善い結果」が出て来るのです。
僧侶
今日はクリスマスであり
そして
私がいらない歳を
とってしまう日でもあります
同級生のグループラインで
「おめでとう」を頂くのですが
ここのグループの良いところは
「何歳になったの?」
と聞かれないところ。。。
……………
最近マジメにブログをあげてるから
友達に褒められた。
私のブログは
「あなたらしさが出てるよね〜」と
よく、友達に言われる。
「わたしらしさって、どんならしさ?」
って聞いたら
「ウラオモテがない感じ。」
って。。
ん?これは
褒めてるのか?
アホってことか?٩( ᐛ )و
自分では
言われるまで
そのように見られてるとは
知らなかった。。
人間というのは
意識(認識してる)部分と
無意識(認識していない)部分とがある
人間の行動の9割は無意識なので
実は自分がわからない事だらけ。だらけ。
問題がおきるときや
苦しいときは
この無意識がくせ者だ。。
自分より
周囲の人々の方が
自分の無意識を知ってる部分が
多いかもしれない
(ㆀ˘・з・˘)
今年はパワハラ、モラハラ関連など
◯◯ハラについての
問題がテレビでたくさん放送して
ましたね〜
昔はなかった言葉ですが
パワハラ等に関する捉え方は
年代によって違うと感じます
20代、30代半ばぐらいの方々には
馴染みが多いかと思います
しかし50代以降の方々にとっては
問題の重要性がわからない人が多い
長く生きてきた習慣が
それを問題と認識出来ない人も多いです
でも私が思う一番の問題は…
「どうしたらいいのかわからない」
「どう話したらパワハラにならないか
わからない」
そんな人が多いという現実があります
だから周囲が教えてあげてください。
年代的に
頭が堅くなり柔軟性がなくなって
頑固な人も多いですが…
どうぞ根気よく何度も何度も
教えてあげてください。。。
時代がものすごいスピードで
変わっていっている昨今
長く使ってきた脳みそが
ついていけてないのです。。
中には
とても脳みその若い中高年もおります!
その様な人は
若い時からココロを磨いてきた人です。
嫌でもみんな順番に年をとっていきます。
若い人達もココロを磨き
どうぞ素敵なおじさん おばさんに
なってください!
年々基礎代謝が落ちて
寒さを感じます…
若いとき
おばあちゃん達が
なんであんなに厚着だったのかが
今、よくわかりました!
……………………………………
夫婦関係に関するご相談も
よくきます。
主にやはり離婚のご相談が
多いですね
離婚したい原因はさまざまですが
離婚を意識した時
皆さんは誰に相談しますか?
最近の傾向は
親や離婚経験のある知り合いなどが
多いようですが…
私は
親と離婚経験のある知り合いは
避けた方がいいと思ってます
なぜなら
最近の親は子どもをすぐ離婚したがらせる
傾向があると感じます。
その心理は複雑なのですが
一言で言うなら
「子どもが悩んでる状態に
親自身が耐えられないから。」
だから
「もう離婚しなさい!」
と親が決めるケースや
「離婚した方が良いけど
決めるのはあなただから」と
「離婚させたい満々」のメッセージで
こどもに話す親が
多いこと。多いこと。
つぎは
離婚経験者を避けた方がよいのは、
人間は自分の選択を後悔しているとは
思いたくない心理があり
また、他者への幸せについては
「不幸になっては欲しくないけど
私よりは幸せにならないでね」と
いう心理が働き、
離婚の相談をされたりすると
自分の経験を肯定しようとして
無意識に
友達にも自分と同じ選択を
勧めることが多いから。
ついでに。もう一つ。
離婚した人で
子どもがいる人の再婚について
子どもが成人になっていれば
別でしょうが…
親が離婚だけでも子どもは傷ついているのに
再婚となると子どもココロはもっと
傷つきます。
親が勝手に離婚して
勝手に連れてきた人と
一緒に住まなきゃいけないわけですから。
小さい時は
わからないですが
その子達が、大きくなるにつれ
ドンドンとココロは傷ついていきます
そうして
大人になった人達の苦しみを
たくさん聞いてきました。。。
離婚
再婚
いっときの感情や周囲の言葉に
振り回されず
自分の頭で
しっかり考えていきましょう。
「不登校の子どもをカウンセリングに
行かせたいのですが
行きたがらないので…」
という問い合わせを度々頂きます。
そんな時私は
「お母さん(お父さん)がカウンセリングに
来ませんか?」と言います
…………
子どもが
苦しんでいるとき
子どものココロを救えるのは
親だけです
どんなに優秀な医師やカウンセラーでも
親にはかないません。
親が子どものココロを
救うのです
でも親もココロを痛めているから
どうやって子どもの苦しみを
抜いてあげたらいいか
わからないんです
だから
カウンセラーは
親のココロを救います。
心理カウンセリングは
「カウンセリングを思いついた人」が
来るといいと思います
誰から言われた事なく
子ども自ら
「カウンセリング行きたい」と
言ったら子どもが来ていいと思います
でもそれを子どもが自ら
言葉にするということは
相当苦しんでます。。。
「まずは親が変わることが大事」
いっぱいで、たくさんの人がココロを
痛めてしまう時代になりました
精神疾患のひとつの
「鬱」
その病気になる
「キッカケ」はさまざまですが…
「それ」はあくまで
「キッカケ」であり
原因ではないと思ってます。
じゃあ
鬱とは一体
何なのかというと…
「怒り」です
「怒り」が姿を変えて出てきたのが
鬱という病気なのです。
しかもその「怒り」は
子どもの時から
自分のココロの中で抑圧したものが
溜まりに溜まって噴き出したものが
「鬱という病気」になって
表に出てきたものです。
その「怒り」を
自覚がある人ない人は、さまざまですが…
ココロの中に抑圧した
その「怒り」をたっぷり吐き出しましょう!
ホームページ屋さんから
「仙台 カウンセリング」で検索すると
Google、Yahoo共に1位ですよ!
って知らされました(^^)
ホームページを作成する
数年前から営業してましたので
仙台のカウンセリングでは
だいぶ老舗かもですね💦
私もだいぶ、歳取りました👵
これもご利用の皆さまのおかげさまです!
現在は優秀なカウンセラーが
たくさん在籍しております
これからもよろしくお願い致します
本当にありがとうございます😊
久しぶりにブログを書こうと思いました
数年前に
「毒親」に関する記事を書きました。
それから
親との葛藤で
ご相談に来る方も本当に多くなりました。
番組では
解決法を話してましたが
そんな簡単ではありません。
長い時間をかけて
自分と向き合い
親との葛藤と向き合い
何度、何度も
苦しみ、気づき、苦しみ、気づき…
繰り返しながら
心の統合が果たせます。
毒親との葛藤を
越えたときに起きる感情は…
「やっぱり私、お母さん好きだわ!」
と感じる日が来ます(^ ^)
今年もこの日が来ましたね
この時期になると
宮城の人々はあの出来事を思い出します
前に進んでいる人…
悲しみをまだ受け入れられない人…
思いは人さまざまだと思います
私もこの7年間
本当にいろんなことがありました
この世は全てが移り変わります
変わらないことは何一つありません。
私たちは
この変わりゆく全てを
受けいれながら生きていくことか
大切だと思います
苦しみは執着心から生まれるといいます
だから執着心をもたないように生きるために
変わりゆくことを
受け入れていきましょう(^^)
]]>先日
県立高校の生徒さん
合計12人が職場訪問にきました
2.3年前も
同じ学校の生徒さんが
来たことがありましたが
その時は一人でした
カウンセラーという職業の
知名度があがってきたということで
嬉しく思います
6人ずつ、約二時間
二部に分かれて訪問し
それぞれからの質問がありました
その中に
「カウンセラーとして大切なこと」
という質問がありました
折角なので、ここでも
私の考えをお伝えしょうと思います
カウンセラーとして大切なことは
いろいろありますが
まずは
カウンセラーという仕事は
クライアントさんの苦しみを
取り除くお手伝いをするわけですから
一番は
「責任感のある人」
だとつくづく思います
カウンセラーという「仕事」ですから
「お金を頂く」わけですから
当然ですが。
例えば行政管轄下(学校や市など)
やボランティアでは
クライアントさんが直接
お金を支払わないので、
そのカウンセリングが良いか悪いかはわかりにくいと思います。
しかし民間はお金を頂いているので
その良し悪しがハッキリでます
ですから
社会人として
人の援助をする仕事ですから
なにより責任感が必要と思います
【質問】
他人を許せたら、自分も許せる、と聞きましたが、どういうことなのでしょうか?
【回答】
他人を許せたら、自分も許せる。自分の存在を否定してくる人がいるからこそ、自分が知らされる。
これが仏教の教えです
普段、私達は、自分のことを善人だと自惚れていますが、一度、自分のことを否定してくる人と出会ったならば、そんな優しい心は、どこへやら、で、吹き飛んでしまいます。
自分の中から、醜い感情が吹き上がって来ます。
その時、多くの人は、自分はそんな酷いことを思う人間ではないのに、あの人がこんなことをするから、こんな醜い感情が吹き上がってきたのだと思って、相手を責めてしまいます。
しかし、自分に、元々、そんな醜い感情が存在していなかったならば、縁が来ても吹き上がることはないのです。
そんな感情が吹き上がる、というのは、自分に元々、そんな感情があったからであり、それが縁に触れて、見えただけです。
つまり、阿頼耶識に、過去に行った経験として、業種子が、薫習されていたのです。
そう思ったら、自分とは、こんな人間なのだな、と思って受け止めるしかありません。
人間とは、とかく善人というところに立って、他人を見下していたいものです。
でも、醜い感情を受け入れてしまったら、それが出来なくなる。
それでも、受け入れたならば、この世に許せない人はいなくなるのです。
他人が許せない、というのは、自分の醜い感情を許せない、ということです。
他人を許せたら、自分も許せる。
自分を許せるようになると、自分の醜い感情が見えても、己れ自身が苦しむこともなくなるのですね。
僧侶
]]>
【質問】
仏教でいう
分別心について、
詳しく教えて下さい。
【回答】
私達は、分別心によって、世界を善と悪、価値のあるものと価値のないものに、というように、二つに分け、悪を否定し、価値のないものを馬鹿にしています。
そうすることによって、いつも善人や価値のある方に自分を置き、自分は馬鹿にされたり、否定されるような人間ではないのだと思って、心の平安を保っているのです。
だから、いざ現実に自分にも悪があると分かりそうになると、どうしても、その現実を認めることが出来ません。
なぜなら、その現実を認めるとなると、今まで「自分は悪などしない」と思って、悪を責めに責めてきた日々の思いが、一気に自分に跳ね返り、突き刺さってくるからです。
つまり、自分が善だと思って、相手の悪を責めていた分だけ、自分が悪になると、責められているように感じるのです。
そこで、私達は現実を歪めて、自分に都合の良いように見ようします。
そして、そうすることによって、自分に向けられた責められるような苦しみから、一時的に逃げようとするのです。
しかし、どんなに苦しみから目を逸らし、見えなくなったとしても、苦しみは消えることはありません。
今度は、苦しみが不安となって、たとえ現実には誰も責めている人や、馬鹿にしている人がいなかったとしても、
「誰かが自分を責めているのではないか」とか、「馬鹿にしているのではないか」という不安が付きまとい、離れることはありません。
それでも逃げたら楽になれると思って、この不安を誤魔化そうとして欲に走り、目先の快楽を貪ってしまうのです。
心は苦しみから逃げると弱くなり、たいしたことがない苦しみでも激痛に感じて耐えられなくなる。
だから、一度苦しみから目を逸らし逃げてしまうと、もう現実と向き合うことは出来なくなり、これ以上は、逃げられなくなる限界まで、欲に走ろうとしまいます。
当の本人にしてみれば、そうやって逃げているうちに、誰かが何とかしてくれないかな、と淡い期待をしているのですが、
欲に走っても、問題を先送りにしただけで、何かが変わることがないのが、現実です。
むしろ、そうやって欲を貪っている間に、問題は深刻化していき、現実と向き合うことを苦しくさせてゆきます。
しかも欲に走って、どんなに逃げたとしても、現実では問題が深刻化していることに薄々気付いているので、余計、不安になり、その不安を誤魔化そうとして、ますます欲にのめり込んでゆくのです。
そうやって、もう、にっちさっちも行かなくなるところまで、欲に走ったあげく、ボロボロになった現実と苦しみに、一秒も耐えられないほど弱くなってしまった心で向き合わなければならないのです。
その苦しみは想像を絶するものがあり、死んだら楽になれると思って、自ら命を絶ってゆく人もいますが、肉体を失っても苦しみは消えることなく、
まさに、天まで届く火柱に、この身を焼かれて、果てしないほどの長い間、苦しみ続けなければならないのです。
逃げて、逃げて、その時は一時的に楽になったとしても、後から、その何倍もの苦しみがやってきて、苦しまなければならない。
だから、どんなに苦しくても現実と向き合わなければなりません。
では、なぜ私達は、これほどまでに、ありのままに現実を見ることができないのか。
根本的な原因は、分別心にあります。
唯識では、分別心を正確に言いますと、虚妄分別(こもうふんべつ)、あるいは、妄分別(もうふんべつ)と言います。
この分別心によって世界を二つに分け、悪を否定し、正しいところに置こうするから、世界が歪み、不安が生み出されます。
問題にするべきことは、分別心でもって、心を善悪に分ける自分のあり方です。
苦しみは、現実世界が生み出していると思って、現実世界・状態が変われば、苦しみはなくなると思っているのが、私達の迷いの世界です。
私達は、原因が自分の心にあると思いたくないので、目を外に向け、「自分を不安にさせる奴がいる」と思って、お金や権力などの力を手に入れて、
この現実世界を思い通りに動かそうとしてしまいます。
このように、苦しみや幸せは、自分を取り巻く環境によって生み出されるものだと思っている人達に、苦しみや幸せは、心が生み出すものであると教え、
いくら外を問題にしても楽になるどころか、苦しみは深くなるばかりである、と知らせ、外に向いた目を自分の心に向けさせる。
そして、不安や苦しみの原因である分別心を、一つ一つ取り除いてゆき、苦しみから離れさせてゆく。
僧侶
]]>社会人になると
毎日、毎日、毎日
仕事に行きますよね
人間ですから
遊びを優先したかったり
仕事がイヤになったりすると思います
働きたくない…など
そんな人に何か参考になれば
と思って書きました
仕事すること自体が
イヤになったときの
乗り切り方がひとつあります
「仕事さん」という「友達」と考えてみること
自分が選んだ「仕事さん」に
毎日会って、長い時間を過ごす
時々、うまく行かない時もあるけど
わたしが選んだ
友達「仕事さん」だから
その都度、折り合いをつけて
関係は切らない
プライベートで
悩んだり、辛いことがあっても
職場に行けば
「仕事さん」がいて
いつも変わらず
自分の相手をしてくれている
だから
「仕事さん」といる時は
辛いことを忘れさせてもらえる
自分次第で
「仕事さん」は
いつも自分のそばに居てくれる
自分さえ大事にして
いつも感謝を忘れないでいたら
「仕事さん」は決して裏切らない
もしその「仕事さん」と
合わなくなったら
さよならして
別の「仕事さん」を探せばいい
わたしは
「仕事さん」とずっと
一緒にいたいと思ってる(^^)v
今、「仕事さん」がいない人は
寂しいと思う😢
だから気の合う
「仕事さん」に
出会えるといいね
こんな感じです☝
先日、朝
うちのベランダに亀🐢が
やってきました
どこからか
歩いてきたようです(^^)
元気がないように
見えたので
水浴びさせました(^^)v
そしたら
元気になりました
という話をあとから友達に
話して撮った写真を
みせたら
陸亀🐢なので💦
水浴びは
いらないと言われた…(^^;
さて。今日は
嫉妬と妬みというテーマ
違いはわかりますか?
学術的に
「嫉妬」は
自分のものが
他人に奪われることへの
恐れからくる感情。
「妬み」は
自分と誰かを比べて
他者より自分が劣っていると感じた時に起きる感情。
だそうです
人間ならだれでも、
どちらか、または両方とも
ある感情だと思います
大切なことは
その感情を否定するのではなく
自分の中にある
そのような感情を
受け入れることで苦しみは
和らぎます
人間関係で起こる問題の
根底によくある感情です
相手がどうの…
ではなく
「自分がどうか」ということに
目を向けましょう☝
「自信がないんです…」
よく聞く言葉です。
「自信マンマンです!」という言葉は
あまり聞きませんが…😅
「自信ないと、いう人」と
「自信がないと、言わない人」の
違いって何だと思いますか?
いろいろな見方があると思いますが
私が、思うには…
少なくても
それらの対象に対し、
「能力の差」ではないと考えてます
なぜなら
明らかに能力が高いから
できることや、
スキルや、仕事、勉強などが
出来ているのに…
自信がないという人多いからです
まぁぁ
理想が高い(完璧主義)という
理由もあるかもですが…
じゃぁ何かというと
「自信がない」とは
「自分を信用出来ない」ということじゃないかな…って思う
そして
自分を信用出来ないから
相手と自分への言い訳として
「自信ないです」といって
ハードルを下げて
自分が傷つくのを避けようと
また自分を守ろうとする
自信マンマンの人はさて置き…(^^;
「自信がないと言わない人」は
必ずしも
自信があるという訳ではないが
「自分を信用できる」
という人でもある
そして、傷つくのを恐れず
「それ」に責任をもつことが
出来るということかな。
と思います
あくまで持論ですが(^^)v
【質問】
私は、他人に好かれません。仏教の視点から、何が原因なのでしょうか、教えて下さい。
【回答】
他人に好かれない原因を、仏教の視点から、歌で示してみましょう。
好かれない、他人の欠点、あげる人。
好かれない、他人の出世を、妬む人。
好かれない、他人をさげすみ、差別する。
好かれない、他人が信用、出来ぬ人。
好かれない、自慢話で、自惚れる。
好かれない、我がまま勝手で、骨惜しみ。
好かれない、儲からなければ、しない人。
好かれない、奉仕の心、欠けた人。
好かれない、他人の不幸を、知らぬ顔。
好かれない、下をあなどり、上にへつらう。
好かれない、仏頂面で、愛嬌なし。
好かれない、他人に同情、しない人。
好かれない、陰口、告げ口、ウソをつく。
好かれない、他人のモノなら、浪費する。
好かれない、独りよがりが、村八分。
好かれない、他人の意見を、崩す人。
好かれない、頑固一徹、通す人。
好かれない、他人と和合の、出来ぬ人。
好かれない、我利我利根性、持った人。
り
僧侶
]]>毎日毎日
暑い😵ですね
みなさん体調大丈夫ですか?
気を付けてお過ごし下さい
今日は
精神疾患など
苦しい状態には
必ず理由があるという
お話をします
「人間は、
自分に無益なことは
しないように出来ている」
という生き物です。
一見
ムダに見える事は
本人にすれば
無意識レベルで
ムダではないのです
精神的な苦痛は
本人の意識では
苦しみですが
無意識では
それにより、本人になんらかの
利益が伴っています
その利益は色々ありますが
一番多いのは
「親への仕返し」
もちろん
本人は意識していません
仙台も暑くなってきましたね〜
でも
まだ仙台は過ごしやすい地域かなぁ
……………………
「生意気だ!」と言われたこと
ありますか?
この言葉は
比較的、目上の方が
年下に向かって言われることが
多いかもしれませんね
生意気と言われた人は
どんな気持ちになりますか?
ショック
腹が立つ
悲しい
落ち込む…
など
言われた時の感情は
負の感情が多いかもですね
生意気と言われて
嬉しい…とは思うことは
少ないかと思います
「生意気だ」と言われる人は
自己主張がハッキリしてたり
言われたことをしないなど…
または
それを言う人は
相手が自分の思い通りにならないから
「生意気だ」ということが多いかもしれません…
若い時に
「生意気だ」と言われて続けた人は
年をとって
後輩や部下が増えると
(自分より年上が減る)
「生意気」は
「頼りがい」
に変わることがよくあります
生意気ぐらいな人の方が
将来、成功する確率は高いと
いうことです
「生意気」は
エネルギーの高さを表していると
私は思います
生意気な人は
敵も多いかもしれません
でも生きづらいのは
若いときだけ
そういう人は
たくさん揉まれますから
それが心の成長につながり
それが
「頼りがい」に変わります(o^^o)
うちのわんこは
今日も元気に生きてます
毎日毎日毎日
たくさんの方のお話を聴かせていただいております
毎月
契約している会社も含め
約100セッションします( ̄▽ ̄;)
がんばってます!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
辛いとき
苦しいとき
そんな時はこころに「黒いもの」が詰まってしまっています
それは、日々我慢し続けると・・・
「怒り」にかわり
相手または、自分、または両方を攻撃します
それがまた
苦しみにつながります
まずは第一に大事なことは
その「黒いもの」を吐き出すことです
誰かに話すことです
でも
誰でもいいのではありません
「受け止めてくれる人」です
親、友達、同僚、仲間、恋人、配偶者
お金を払って聴いてくれる人、場所・・・などなど
でもね
吐き出してはいけない人がいます
それは「自分の子ども」
「自分の子ども」はだめです
子どもの年齢に関係なく・・です
自分が80歳になって、子供が60歳でもダメですよ
親と子の関係性は
変えてはいけないのです
(その理由はまた次回に書きます)
大事なこと
苦しみを言葉(表現)してください
]]>
【質問】
人間関係の苦しみ悩みの正体は、何なのでしょうか?
【回答】
人間関係の悩みには、ツボがあります。
人間関係で苦しみ悩んでいる人が、世間には多く存在します。
多く人は、苦しみ悩みの原因を、外の出来事、環境や人に求めていますが、真実から言うと、苦しみ悩みの原因は、すべて自分の内側にある、自分の心にある、と説くのが、仏教です。
人間関係の苦しみ悩みの正体は、外の出来事、そのものではなく、苦しみ悩みを作っている心であり、その出来事を、辛い問題だと感じる心なのです。
これを一つの譬えでいうと、花粉症になぞらえたら、分かり易いのではないかと思います。
春になると、大量のスギ花粉が飛散しています。
Aさん、Bさんがいたとします。
Aさんは、花粉に体が反応して、くしゃみが止まりません。
Bさんは、花粉が飛んでいることさえ、分かりません。
この場合、Aさんにとって、花粉は、問題です。しかし、Bさんにとっては、問題ではないのです。
世の中に花粉が飛んでいるという事実は、変わらないのです。
つまり、花粉そのものは、問題ではないのです。
本当の問題は、花粉に反応してしまうAさんの中にこそ、あるのです。
花粉症の人は、体の中に花粉に対する抗体があるから、花粉に反応します。
だからといって、花粉症の人が、自分の周りから、花粉という存在を、一切なくそうとしても無理です。
せめて、マスクをして、少しでも入ってくる量を減らす位しか、出来ません。
避けて通る訳にもいきません。無視しても、無視は出来ません。
やはり、一番効果的なのは、自分の体質、つまり、自分を変えることでしょう。
人間関係の悩みも、これと同じです。
人間関係の問題も、同じように、ある特定の他人や、出来事に反応する人は、その言動や出来事に対する抗体があるから、反応するのです。
その抗体が、悩みの種です。
ところが、人間関係においては、相手の言動に反応して、必死で相手を責め立てて、相手を変えようとします。
ちょうど、花粉をなくそうとするように。
当然ですが、いくら他人を責め立てても、相手は、全然、変わりません。余計に状況が悪くなるだけです。
何故なら、その相手が問題なのではなく、その人の言動を問題と感じる、反応していることが問題だからです。
人間関係に悩み、しんどい、と思う時、それは、あなたの心が、何かに反応している、ということです。
その何かを見極め、体質を改善することが、大事なのです。
心にも、花粉症がある、ということですね。
幸不幸を生み出す原因は、全て、自分の心の本心である、阿頼耶識にある、とお釈迦様は教えておられます。
今まで、経験として、おさめてきた体や、口や、心の行いが、阿頼耶識に業力不滅で、業種子として、貯えられて、それが様々な縁と和合して、私達の日々の現実の運命という結果となって、現われるのです。
苦も楽も、幸も不幸も、心から、笑顔で暮らせ、その日、その日を、という歌の通りです。
これが、仏教で教える、自業自得という、因果の道理、縁起の教えです。
]]>【質問】
相手の言動で
嫌な所が見えたならば、相手を責める気持ちが出てきます。
どうすれば良いでしょうか?
【回答】
自分が相手を否定するのは、相手を通して、自分の嫌な所が見えているからであり、
自分はそんな嫌な所、悪い所は持っていないと思いたいからこそ、相手を責めるのだ、という事を、まず理解することが大事です。
私達は、相手を責めるのは、自分は相手がやっているような悪いことを自分はしていないと思うからであり、
もし自分が相手と同じようなことをしているのなら、泥棒が他人を泥棒扱いすることは出来ないように、他人を非難する事は出来ません。
しかし、私達は、自分が相手と同じような事をやっていても、自分はそんな悪い人間だと認めたくないので、相手を責めることによって、自分を正当化してしまうのです。
仏教の教えから言えば、相手を通して見えるものは、自分の中に収まっているものであり、自分が心で思っていないものは、相手の姿を通して、見えることはありません。
だから、真実から言えば、自分はあんな酷いことはしないと思って、責めても良いことは一つもありません。
相手の言動を通して、嫌な所が見えたならば、相手を責めるのではなく、他人の振り見て我が振り直せで、自分の心を反省する事が大事なのです。
僧侶
]]>最近はお釈迦さんの
ありがた〜い言葉を
載せておりましたが
今日は我が家のワンコのはなしです
今年17歳のワンコがいます
認知症ではありますが
病気ひとつせず
長生きしてきました
先月大きな病気になって😭
手術をしないと
逝ってしまう…😢
当然、家族ですがら
手術をするのが当たり前だと
考えるでしょう
でも…
「認知症になってこの年齢まで
生きてきてくれて
人間のエゴで
手術なんかして
痛い思いをさせて
長生きさせていいのだろうか…」と
毎日悩みました
ネットをみたり本をみたり
知人達の考えを参考にしたり…
ある時
ハエが飛んでいたんです
外に追い出そうと
振り払っていました
ハエは必死で逃げるんですね
「はっ!」😳ってしたんです
気がついたんです
人間以外の生き物は
例外なく
みな、必死で生きようとしてます
自分のいのちを守るために
必死でいきてます
喋れないから
うちのワンコの気持ちを
聞くことはできないけど
正解はないかもしれないけど…
生きたいに決まってるって。
人間以外の生きものは
必要以上の欲も、ズルさも
執着心もないんです
全ては生きるために必死なんです
人間だけです
自分や他人の命を粗末にするのは…
大手術成功しました🐶
少しでも長く
一緒にいれたらいいな〜
って思ってます✨
【質問】
自分の不安の原因は、外からやってくるのではなく、心の内にあると気付けば、どうなっていくのでしょうか?
【回答】
自分の不安の原因は、外からやってくるのではなく、心の内にあると気付くと、苦しくても、自分の不安の原因と向き合って、解決していこうとします。
私達は、誰しも、自分の中に、自分でも許せない心を持っています。
たとえば、他人に迷惑をかける自分とか、他人に助けてもらわなければ生きてゆけない弱い自分とか、
他人を傷つけて、自分の気持ちを分かってもらおうとする自分とか、自分を守る為に、平気で嘘をつく自分とか、
そのような醜い自分、汚い自分、恐ろしい自分を心の中に抱えています。
私達は、そんな自分を見たくないので、目を外に向け、外界の華やかな世界を追い求めてしまいます。
しかし、どんなに醜い自分と向き合いたくないから、と言って、目を逸らしていても、問題が解決することはありません。
それどころか、目を逸らし、逃げれば逃げるほど、内なる不安は、どんどんと吹き上がり、問題は日を追うごとに深刻になってゆきます。
しかし、どんなに不安の原因は、自分の心にある、と気付いても、私達には、その不安をどうすることも出来ません。
何故なら、不安と向き合う為には、功徳が必要だからです。
ここで功徳とは、安心感のことで、他人から認めてもらうことによって得られる心の余裕のことです。
私達は、心に余裕があってこそ、不安と真正面から向き合うことができます。
しかし、私達のいる世界は、皆、自分が認めてもらいたい一杯で、相手のことを認めてあげようと思う人は、殆どいません。
ですから、そんな世界の中で、不安と向き合って問題を解決することは、ただ心が傷つき、苦しいだけなので、問題から目をそらし、
欲を満たすことによって、不安を誤魔化そうとするのも、仕方ないことかも知れません。
ここで大事なことは、その人が不安と向き合えるように、心を支え、その人がどんなことをしても、決して見捨てることなく、認め続けることによって、功徳を与えることの出来る人の存在です。
このような存在を、仏教では善知識とか、善友と言いますが、その善友がいなければ、不安と向き合い、問題を解決してゆくことは、中々、出来ません。
また、善知識と出会って、認めてもらえる環境の中にいても、今まで何度も他人から見捨てられてきたり、都合の悪い人を見捨ててきた人は、
善友が、どんなに無条件で認めようとしても、どうしても信じることができず、問題を自分の力で、何とかしようとしてしまいます。
これを仏教で、自力と言いますが、この自力の強い人は、苦しい時ほど、自分で問題を抱え込んでしまい、善知識に頼ろうとはしないのです。
だからこそ、善友は、このような自力の強い人に対して、焦ることなく、温かく接し、自分は絶対に見捨てられないのだ、と信じてもらえるまで、見守り続けなければならないのです。
このようにして、自分の問題と向き合い、一つ一つ解決することによって、初めて、心が穏やかになり、他人の心の渇きを癒すことが出来るような、潤いのある人間になることができるのです。
僧侶
]]>【質問】
仏教で教えられる、怒りの解決方法を教えて下さい。
【回答】
怒りは、心の猛毒であり、自分を破壊する恐ろしい心だと、まず、自覚して頂きたいと思います。
怒りとは、自分の心の中から、生まれたものですから、怒りの解決方法は、心の毒、そのものを抜くことしか、ありません。
その怒りの解決方法とは、お釈迦様が悟りを開かれた方法である、毘鉢舎那(ビバシャナ)の実践、つまり、今の瞬間の自分に気付き、物事をあるがままに明らかに観る、ことです。
これが、世の中で、一番科学的な、怒りの毒を抜く方法なのです。
ですから、怒りが生まれたら、「あっ、怒りだ、これは怒りの毒だ」と、すぐに自分を観るのです。
怒り、そのものを観察し、客観視出来るように、努めてみてください。
「今、この瞬間、私は気持ちが悪い。これは怒りの感情だ、ということは、私は怒っているのだ」と、外に向いている自分の目を、すぐに内に向けるのです。
最初は、「他人が何かを言うと、すぐに私は怒ってしまう」、というところまでは、仕方がありません。
しかし、それからも、延々と人の言葉に振り回されて、思い出し、捉われるのではなく、怒った瞬間に、これは怒りだ、と観ていくのです。
そうすれば、不思議と、怒りは、生まれた瞬間で消えてしまうのです。
消えてしまえば、心は次の瞬間を感じようと、することが出来ます。
怒りが消えると、凄く気持ちが良いものです。
そこまで行くと、自分もコントロールがうまいものだ、と自分を褒めてあげることが出来ます。
そうなれば、いつでも、怒りの感情に悩まされることはなく、穏やかに人の話を聞いてあげることが出来ます。
これが、お釈迦様が、怒りを治める方法です。
自分の心を観る、心を観察することで、怒りは消えるのです。
簡単で、瞬時に出来ることで、心理学の知識も、カウンセリングも、全く必要ありません。
仏教では、今の自分に気付いていない人のことを、愚か者、死んでいる人、寝ている人、と言う意味の言葉で呼んでいます。
怒ったその瞬間に、自分の怒りに気付けない人は、怒りの塊になります。
それで、ひとしきり、怒ったあとで、「ああ、腹が立つ」などと、自分が怒ったことを自覚するのです。
ひどい時には、三年経っても、「あの時は腹が立った」などと、思い出して、また怒って、そのたびに自分を何度も破壊することになります。
自分をあるがままに観る、客観視する。ただそれだけです。
このことを、しっかりと覚えておいて頂きたいと思います。
僧侶
私は無宗教なのですが
世の中で一番尊敬している
お釈迦様の声を
皆様にもお届けしようと思い
このコーナーをつくりました
約100年前のフロイトや
ユング、またアドラーよりはるか昔
…2600年前 に
「東洋の心理学」をすでに
説いていました
お釈迦様は慈悲心のある方ですが
時に厳しい言葉に
感じるかもしれません
それが私にはとても
必要な智慧です
Q&Aスタイルになってますので
興味のある人は
どうぞご覧ください(^^)
今朝の「とくダネ」に
いつも ツイッターで見て癒されている
5歳のはなちゃんという女の子がちょっと
紹介されておりました
(o^―^o)ニコ
告知があったのでその時間かじりつきでした。
朝から癒されました・・・❤
・・・・・・・・・・・・・・・
よく我慢する人が「うつ」になりやすいってことは
知っておりますよね。
でも
どんなに我慢してもうつにならない人もいます
私の友人は
震災の時これでもか!。。。というほどの苦しい状況が重なって
専門家からみても「このままではうつになってしますのでは。。。」と
思えるような状況でも、その人はなりませんでした。
その理由は・・・
同じ我慢をしても
うつ病になる人と
ならない人は何が違うのかというと・・・・
(ここからは私の長年の臨床経験や周囲の人を
分析したことによる持論です)
それは
「ストレス耐性」なのだと思います
「我慢」強いと
「ストレス耐性」が強いは全く違います
うつ病になどになりやすい人は
我慢強いけど
ストレス耐性が低い
我慢強さはなくて、ストレス耐性も低い人
うつにはなりにくですが、不安になりやすいです
なぜなら、うつになるほど我慢できないので
うつになるほど我慢ができないから・・・
「うつになる」とは
自分の我慢の限界を超えるとなります
我慢 ➡ 踏ん張る、食いしばる、頑張るという感じ
ストレス耐性 ➡ 嫌な事や辛いこと、様々な変化などの
ストレス要因に対してそのストレスを上手にかわす力
(「ストレス耐性が強い人の考え方の共通点」は以前のブログに書きましたので参照ください)
我慢もストレス耐性の弱い人は
まずは
ストレス耐性を上げていくと
我慢もできるようになってきます
(これはホント、すごいです)
世の中は
「我慢が足りない」「我慢が大切」といいますが
違います
先に大切なのは
「ストレス耐性を付けること」
もともと我慢強くて
ストレス耐性の低い人(うつになりやすい人)は
ストレス耐性を強化しよう
]]>
あー・・・・・
だいぶ久しぶりのブログになります
いつぶりだろうな〜
いつもいつも、
「今日、このことブログに書こう」と思うのに
30分すぎると忘れる・・・
やっぱり何事も習慣にしないとダメですね
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日のタイトルを思いついたきっかけは
価値を「お金や物」に置いている方々を観察したときに
お金や物は大切だけど、どうしてそれまでにそのことに強い執着を求めるのだろう・・・と
考えた場面がありました
例えば・・・
家を買いました
うれしい気持ちでワクワクしてたのに
ある時、一気にその気持ちがダウンしてしまう人がいます
それはなぜか・・・・
家を買うとはそれを「所有」したことになります
「物の所有」とは「他人との比較」を生みます
「比較」とは「勝者」と「敗者」に結びつく考えになりがちです
「お隣さんより、大きな家(値段が高い)を買った」という感情は優越感を生みます
「お隣さんの家よりうちは小さい(値段が低い)」という感情は劣等感または、敗北感を生みます
それらのこころの背景には
「競争心」があり、勝った負けたということで
物やお金という目に見える形で、安心したい(私は相手より勝っている)と思いたい感情なのだと
思いました
しかし反対側の土地にまた別の人が大きな家を建てたら
その優越感は長続きせず、今度は敗北感になるかもしれない
決してお金や物に執着することが悪いとは言いませんし
それはそれぞれの価値観です
ただ・・・・・・
私たち人間という欲の塊の生き物はそれでは
キリがないと思うのです・・・・
心とは
お金に代替えされないものであり
求めようと思えば誰でも求められる
しかも求めても失うことがないもの
奪い合いもひけらかすこともない
所有も比較も競争もないもの
]]>
いじめを受けて大人になった方々のお話しを数え切れないほど聴いてきました。
子どもの頃に受けた
そのキズは大人になって
何年もその人を苦しみ続けます
カウンセリングにくる目的は
さまざまですが
現在の苦しみが
過去の体験から来るものが
ほとんどです。
学校で壮絶ないじめを受けて
頑張って乗り越えた人と
残念ながら
命を絶った人の大きな違いがあることに気付きました
以前数年前もブログに書きました。
子どもの世界は狭いです
学校、友達、家
大人になれば
世の中が広いことはわかりますが
子どもにとって
今ある世界が全てです
そんなとき
命を絶つという選択をするのは
行き場所が無くなり
絶望的になったときです
学校や先生や友人にできることは
ほんの一部です
なぜなら
それは他人だから…
仕方ないんです
子どもを救えるのは
…………………………
親だけなんです
どんな状況でも
家が居心地がよければ
子どもは命も経たないし
大人になっても過去の
いじめのトラウマも乗り越えられます
若い方々は
相手にお断りするとき「結構です」と言わずに
「大丈夫です」という
「このお菓子たべますか?」という質問に
断るとき「大丈夫です」という。。。。。。
確かに・・
「結構です」というとなんだかカドがたつからかな・・・
「大丈夫」の使い方の幅が広がった?・・・ということにしよう・・・
皆さんは断ることに抵抗はありますか?
私は少し苦手かな・・・
私の場合・・・つい「良いですよ」と条件反射で言ってしまうのことがある。。。
おひとよしなのかな??
でも大事なことはしっかり断りますけどね
親密な関係には「ノー」ということはとても大切です
「断る」という行為は「関係を結ぶ」のとは正反対のように見えますが
実はそうではありません。
親密な関係を結ぶためには、
なんでもかんでも受け入れるのではなく、
ノーをいう能力が必要です。
相手を馬鹿にしたような言い方や拒否したという印象を与えず、
上手に断る技術も必要
また反対に相手に「それはいやだ。困る」といわれたとき、
きちんと
受け止める安定した自分もつくって
いかなければなりません。
いちいち拒絶されたような感じをうけて傷ついていたら、
人間関係は築いていけないのです。。
私のと〜ても長〜く付き合っている心が健康な友人はしっかり断ってきます。(マイペースもあるけど・・・笑)
だから長くつきあっていけるのかもしれませんね〜
]]>ありがとうございます。
皆様にとってこの一年はどんな年でしたでしょうか?
どんな経験も全ては
未来の自分にとって「意味」のあることです。
無駄な経験は何一つありません
どうぞ皆様良いお年をお迎えください
]]>大切な人を亡くした人々にとては今日は特別な日ではないと思います。
なぜなら。。。1日も忘れた日はないのではないか・・・と思うからです
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人は他者の辛さを100%理解することが難しいですが
相手の立場になって共感するということはできると思います。
でも「共感」の心が乏しい人が意外に多いです。
頭では「かわいそうだな・・・」などと考えることができるのですが
こころが伴わない・・・という方は最近は多くなりました。
気の毒です。。。。。
幸福学という学問では
人の脳が<幸福と感じる条件>をこのように語っております。
? 人とのかかわり・・・・・社会との結びつきがあるとき幸福と感じる
? 親切心・・・・・・・・・・・・人に心から親切にすることで幸福と感じる
? 今ここにいること・・・・目の前のことに集中することで幸福感じる(先のことを思い煩わない)
]]>